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◎映画『海街diary』を合評にて批評する。
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フィクションの力を信じるためにこそ、この「いい話」を否定すべきである。
吉田秋生の『海街diary』を是枝監督が映画化すると聞いたときは、「ああ、なるほどね」としか思えなかった。吉田のその作品を僕は連載開始からずっと読んでいて、そして「これは世で評価されるマンガなんだろうな」と予想していたが、果たしてその通りになった。複雑な家庭環境――あるいは、親たちの都合――の下でバラバラになった姉妹たちが、親を捨て、鎌倉の風情ある街の四季の移り変わりをバックに寄り添っていく物語。その街で、それぞれの事情を抱えながら、だけど少しずつ思いやり合って生きていく人びと。……いい話である。でもそれは、僕にはあらかじめ「いい話だね」と落ち着ける場所が用意されているように思えてならない。
だからこの映画化は完璧だ。鎌倉の四季の移り変わりを捉えた映像は本当に映画的で、美しい……これは、皮肉ではなく。マンガの印象的なエピソードをピックアップし、重ねていく日々は『歩いても 歩いても』ほど目的に向かって回収されていくこともなく、そこはエリック・ロメール的だと言えなくもない。そして是枝らしい演出も冴え、食べもの、というもの以上に食卓が人びとをつなぎ、血のつながりが分断されようとも、新たな共同体は形成されていく。
それでも、やはりこれは観客が期待する「いい話」と共依存関係にある映画だろう。池田貴史が登山の際の凍傷で失った足指(これはマンガにもあるエピソードである)を姉妹に「見ます?」というシーン。もちろんその足指は披露されず、カメラにも映されず、マンガのエピソードをきちんと拾っていますよというポーズとともにちょっと可笑しい一幕として通過されるだけだ。見たくないものはこの映画では見なくてもいい。あるいは、長女と四女が高台で叫ぶシーンの取ってつけたようなまとめ感、それが観客たちの期待するものだともし監督が思っていたとすれば、それはぬるま湯だと言いたくなってしまう。
『誰も知らない』の元となった事件では、ここでは詳しく書かないがもっと悲惨な顛末があったそうだ。現実で社会から見棄てられた少年は逞しく生き抜いたのではなく、人間らしさを失っていった。だけどもそれは映画では採用されず、代わりにタテタカコの柔らかい歌声が導入され、観客は柳樂優也とともに妹を葬った気分に「なれてしまう」。酷薄な社会はこの兄弟を見捨てた、だけどわたしたちは最後まで見守ったという気分にさせてしまう。
映画はフィクションなのだから、現実を克明に描かなければならないということではない、むしろどんどん変えていく力を持つべきだ。だが、だからこそ、フィクションの力を信じるためにこそ、映画が観客を安心させるものであってほしくはないのだ。
今年のカンヌ映画祭、日本の多くのメディアでは「日本の作品が」という主語でこの映画ばかりを取り上げていた(まあいつものことだから驚かないけれども、ジャック・オディアールのパルム受賞作にすら触れないものはさすがにどうかと思うが)。今年の受賞結果は、日本人の多くの観客の「期待」に応えるものではなかった。
(文=木津毅 )
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「私はこれを覚えている」と思うことがどこまでも許される映画
ある男の「不在」を共有することで立ち上がる物語であるにも関わらず、是枝裕和の新作『海街diary』において、その男のかつての姿を写真で確かめようとする者は誰一人としていない(唯一、父の記憶をほとんど持たない三女だけが、そうした行為を過去にしたことがあると証言しはするのだが、それもさほど効力を持つものではないらしい)。もちろん、『ワンダフルライフ』(1999)のような突飛な設定を含む作品においてさえ、フィクションの世界でも生真面目なリアリズムの描写に徹してきた是枝映画にあって、本作に限って、写真やカメラという文明が存在しないSF的設定などが採用されている筈もない(冒頭、ヒモのような甘やかし方をしている恋人の隣で眠る次女(長澤まさみ)を起こすのは、メールの着信を知らせるスマートフォンのバイブレーションだ。この物語の世界でもカメラや写真といった文明はありふれているかに見える)。
しかし、例えば、父の葬儀の帰り道、父の持ち物に含まれていたらしい何枚かの古い写真を出会ったばかりの四女(広瀬すず)から手渡された3人の姉たちは、その束を一緒にめくるものの――そのうちの一枚くらいは父なり母なりが写っていてもよさそうなのだが――単に自分たちの幼い頃の姿をひやかし合うに過ぎないのだ。あるいは、三女(夏帆)の恋人なのか最後まで明らかにならない熊のような男(三女が勤務するスポーツ用品店の店長)が、女たち全員を前に、自分がかつて活発な登山家であり、不運にもエベレストで遭難し、足の指を6本失くしたというエピソードを披露し、その足を見るか、なんなら写真に撮ってもよいとおどけてみせるシーンがあるのだが、まるでそれが禁じられた行為でもあるかのようにして、女たち全員が気まずそうに口をつぐみ、長女(綾瀬はるか)が4人を代表してそれを拒んだりする。
では、写真とはなんであったか。なぜ、『海街diary』において、写真はこのような扱いを受けているのだろうか。手がかりとしてロラン・バルトの古典『明るい部屋』を思い起こすのであれば、一義的には、写真が伝えるのは「それ(被写体)はかつて(そこに)あった」という手に負えないほどの《事実性》であった。そして、こちらがより重要かつ稀少なのだが、「(被写体が現実に漂わせていた雰囲気とは)これだ!」「このとおり、そう、このとおり、まさにこのとおり!」という《真実性》を、極めて小さな確率で、(おそらくは特定の人間関係を有していた者にだけ)伝えることができるのだという。後者の《真実性》に関しては、バルト自身が認めるように、ガチガチに理論化された言説ではない。しかし、《事実性》と《真実性》ということで言えば、かのロベール・ブレッソンまでもが(『シネマトグラフ覚書』において)こんな非・理論的なことを書いている――「生(き)のままの現実は、ただそれだけでは真なるものを提示はしまい」。
是枝裕和が鎌倉に集めた4人の女たち(と、その周囲に親密に形成される小さな人間関係)は、バルトやブレッソンの非・理論をそうとは知らずに実践する(というか、それが実践されているからこそ維持可能な)共同体である。彼女たちにとって、戸籍や血縁、写真といった《事実的なもの》はさして重要ではないのだ。実際、父の3人目の妻(4人の誰から見ても他人)のもとで義弟と暮らす四女を、山形から鎌倉へ越すように誘う3人の素振りは、さながら友人をお茶か映画にでも誘うような軽さであり、またそれがどのようにして実現したのかは語られない。女たちは《事実的なもの》が築き上げる壁を、さも何でもないかのように軽々と飛び越えてしまう(とは言え、四女の耳の形や基本的な人間性が長女と似ていたり、酔った時の乱れっぷりが次女顔負けのものであったり、食べ物の好みが三女と近かったり、そうした《事実的なもの》を発見したときの姉たちの照れた喜びの表情は悪くない)。
では、この映画において非・理論的に作用する《真実的なもの》とは何か。おそらく、それは「記憶」である。例えば、食べ物のレシピに宿る記憶、人の残した言葉に宿る記憶、もしくは、ある風景に宿る記憶が、映画のすぐ横を静かに通り過ぎてゆくのだが、それに手を伸ばそうとした者の手と手がふと触れ合う時、《真実的なもの》が静かにグルーヴし始める。何かを食べ、誰かの話を聞き、どこかの風景を眺めて、「これだ、そう、これだ、まさにこれだ!」と記憶を非・理論的に確信し、誰かと共有すること。そして、その記憶の連なりから立ち上がる知られざる人間関係(ここでは、父のかつての友好関係など)を想像すること。あるいは、自分もその一部にすでに加わっているのだということを知ること。言ってみれば戸籍上の、あるいは生物学上の共通の父を持つ、ということに「過ぎない」この不確かな4人組は、それらの記憶を共有することによって(周囲の人を巻き込みながら)徐々に結ばれていく。逆に、記憶の宿る買い物(箸!)を長女に拒まれたある男は、間もなくこの関係性からはじかれてしまうし、記憶の象徴(家!)を処分しようとする3人の実の母親も、素早い退場を迫られる。《事実的なもの》が担保する制度としての「家族」ではなく、《真実的なもの》が非・理論的に形成する「共同体」へ。是枝映画はここでひとつの結論へと達しているかに見える。
また、これはささやかな贈り物に過ぎないのだが、自転車の滑走シーンに宿るトリュフォーの記憶や、意味もなく長女を鐘の音で振り向かせてみるシーンや、すぐに止む雨を降らせて長女と母親に傘を持たせてみたりするシーンや、映画の大半の時間を占める縁側や食卓(ちゃぶ台)でのシーンに宿る小津・成瀬の記憶は言うに及ばず、これまでの是枝映画そのもの(例えば、階段の拭き掃除をする長女の姿は1995年の『幻の光』で既に見ているし、「死を目前に何を思い出すか」という問いは1999年の『ワンダフルライフ』の主題そのものであるし、「こども達だけで形成される家族」という題材は2004年の『誰も知らない』と年齢的な相似を成しているし、3世代にまたがる家族・親族・共同体の関係性は2008年の『歩いても 歩いても』でさりげなく準備されていたし、四女が転校先で形成する4人組は前田旺志郎の姿とともに2011年の『奇跡』を思い出させ、「血か記憶か」という対比は2013年の『そして父になる』においていささか極端な二択で問われていたし、そもそも親の違う姉妹を扱う物語は、漫画の映画化と言うよりは成瀬の『稲妻』の意識的な再現でもある)を含む「映画」に宿る記憶を通じて――たとえ原作漫画という記憶を持ち合わせない筆者のような人間であろうと――観客はスクリーン上に形成される共同体の一部へと心地よく溶け込んでゆくだろう。
これから新たな「記憶」となっていくのであろう、数々の風景や食べ物(桜のトンネル、海の上での打ち上げ花火、4人で歩く砂浜、シラスのトースト、梅酒、アジフライなど)の前をカメラは通過し、また、お近づきの印として、3人の姉たちが四女へそれぞれに持ちかける小さな秘密(山の頂上からの絶叫、小指だけのマニキュア、ちくわカレーなど)をカメラは見守ってゆくのだが、是枝裕和その人も、それらを決して「風景《写真》的な美しさ」ではカメラに収めていないし、物語の側にあっても、そこでスマホを取り出し、記憶を写真に留めようとする者など誰一人としていないのは言うまでもない。直近では、例えばグザヴィエ・ドランの『マミー』では、共同体の記録・確認のためにスマホによる「自撮り」がさっそく導入されていたことを考えれば、本作の打ち出す映画的な思想は明確である。(なお、物語のなかで唯一、幾度となく突っかかり合う長女と次女が一枚の写真で盛り上がるシーンがあるのだが、それはまさにバルトが母親の写真のうちのたった一枚に反応したように、思わず「これだ!」となってしまう《真実の写真》だったに違いないのだが、その写真が誰のものであるかは触れずにおこう。)
また、ポストモダン映画の代表作とも言えるデヴィッド・クローネンバーグの『コズモポリス』において、ウォール街でのそれを思わせる大規模なデモで足止めを喰らう白いリムジンの中から、路上で焼身自殺に及んだ者を一瞥して「あれはパクリだ、オリジナルじゃない(ので価値がない)」と嘲笑うシーンがあったことを思い出してほしい。そこはまるで、何かを記憶し、何かを思い出し、目の前の光景に既視感を覚えることは罪であるかのような世界だった。しかし、この『海街diary』では 、物事そのものではなく、そこに宿る記憶(=《真実的なもの》)を肯定してゆくことによって、甘美なグルーヴが続いてゆく。そう、《事実的なもの》が崩した家族を、《真実的なもの》を共有することで再生すること。できれば、より大きな共同体として。こうやって図式的に整理してしまえば単に反動的な物語と思えなくもないが、しかし、『海街diary』においては、何かを記憶することは何ら罪ではなく、「私はこれを覚えている」という既視感を誰かと分かち合うことはどこまでも許されているのだ。
(文=竹内正太郎 )