誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。
――『リュミエール』誌、1985年秋号の《創刊の辞》より引用
これからここに公開するリストは、いわゆる「映画史に刻まれた名作選10」ではない。そんなものを選べるほどの数を見ていないという自覚くらいはあるし、仮に、月に40作ほど観ている計算になる現在のペースでこの一年を過ごしたとしても、そんなリストを組む資格が得られるにはほど遠いだろう。だからこれは、あくまでも一つの個人史的な事実として、僕の人生を変えてしまった映画の素朴な羅列に過ぎない。したがって、このリストは誰かとセンスや知識を競うものでもあり得ない。10作というといかにも名作選風だが、改めて過去を振り返ったときに、僕に決定的な影響を与えている作品の数が10作よりも少ないということはなく、また、10作よりも多いということもない、ということが結果として明らかになったので、便宜的にだがベスト10風の形式をとることになったことだけ断っておく。なお、掲載は時系列の順である。
個人史に徹するため、いくつか告白しておくべきことがある。まず、僕が映画を本格的に観るようになったのはここ数年のことである。これでも一応、音楽ライターの末席を汚す身として、映画のことを勉強することが音楽の評論の方で活かせれば、という下心があったのである。しかし、そんなことが容易くできないことを知るばかりか、利用しようと思っていた映画にむしろ「喰われて」しまったのだ。それほどまでに強い映画の魔力に圧倒されていく一方で、例えば同年代のライターにしろ、若手批評家と呼ばれる人たちにしろ、お勉強したばかりの映画評が音楽のアルバム評や社会評論のおかずに使われることほど醜悪なものはなく、その辺の話題作を定点観察したのちに提出されるカルチャー時評的なものには何の可能性も感じられない、ということに気付く程度の感受性がまだ自分のなかに残っていたことを発見したのだった。
映画を輝かせる言葉を見つけられないのならばせめて映画に言葉を奪われたあとの沈黙を知る人間でいようじゃないか。僕に憑りついた悪魔が、これを読むあなたにも見えたならばそれに勝る幸いはない。
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夜の人々(1948)
THEY LIVE BY NIGHT
ある日、男と女が出会う。男と女は、トラブルに巻き込まれる。あるいは、人を殺め、金を盗む。追っ手が迫る。二人の前には、車が一台ある。やることは一つしかない。このようにして、「物語」というものが神格化されてしまった現代に生きる私たちからすれば呆気にとられるほど、もしくは嫉妬で気が狂いそうになるほどあっさりと、男と女が車に乗り込むというだけのことで、「物語」は始まるのだ。にも関わらず、筋書きからしてこの物語の終わりが主人公の「死」以外にはあり得ないということを冒頭の段階で早くも確信せざるを得ない『夜の人々』という映画にとって、観客の物語論的な関心はいささかも重要ではない。なぜなら、この二人は、何も司法や警察の手からのがれるために車に乗り込んだのではないからだ。それはあくまでも口実に過ぎず、後年、この『夜の人々』を重要な参照元の一つとして撮られることになる、ゴダールの最高傑作と名高い『気狂いピエロ』でハッキリと代弁されるとおり、それは「腐った世界を捨て去るチャンス」だったのだ。したがって、彼らが目指したのは実際的にも象徴的にも「南」などではあり得ず、直訳すれば「夜の近くで生きる人びと」という原題を持つこの映画にとって真にふさわしい邦題は、セリーヌの長編に与えられた『夜の果てへの旅』だったに違いない。
《Trailer》
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道(1954)
LA STRADA
映画史に名高い、中盤のあの忘れがたい「石ころ」のシーン。あそこで男から女に投げかけられる言葉を素朴に受け止め、劇中の女と同じように感激してしまう人がいるが、それは根本的に違う。あそこで男が投げかけるちょっとした哲学風の言葉は、今となっては三流のJーポップ・バンドが様々にバリエーションを変えて歌っているような、凡庸極まりないものだ。したがって、私たちがあの石ころのシーンで深い沈黙にとらわれるのは、あの言葉そのものの力ではあり得ない。そうではなく、あの言葉を受けてパッと明るくなる女の表情、炎が灯るかのように目が輝きを放つ小さな事件、あの子どものような純粋さ、それこそがこの映画のすべてである。ひとつの言葉で世界の見え方が一瞬で変わってしまう、生き方さえも変わってしまう、その魔法じみた瞬間にぶち当たったときの人間が浮かべる困惑にも似た革命の表情を、私たちはこの映画で目撃するのだ。しかし、女が連れ添うべきは、人身売買で買われた旅芸人の男の方であり、彼にはそのような哲学的なものの考え方は存在しないのだ。やがて旅は二人を分かつが、数年後、女の「近況」を知ったときに男が浮かべる表情は、あらゆる人類の失意を代表するかのように、私たちから言葉という言葉を奪ってゆく。
《Trailer》
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2001年宇宙の旅(1968)
2001: A SPACE ODYSSEY
およそ考え得る中で、完全な映画である。大衆性、実験性、政治性を思いのままに操った67、68年の(一般に黄金時代と呼ばれる)ロックでさえ、これに匹敵する作品を何ひとつとして遺していないのではないかと悟るとき、あなたはそれでも「まともな」音楽ファンでいられるだろうか。そんな完全な映画を前に、筆者如きが言えることなど何もない。かわりに、浅田彰のいかにも「お仕事」風に書かれた『インターステラー』評が、どう読んでも『2001年』を改めて称賛する文章にしかなっていなかったのが面白かったので、該当箇所を勝手に再編集して引用してみよう。
《Trailer》
《2001年》は、人間には理解不能なものをそのまま示して謎のまま終わる。月面で発見されたモノリスの発する信号に導かれて、巨大な精子を思わせる宇宙船で木星近傍の「スター・ゲート」に到達したボーマン飛行士が、その彼方で時空を横断する旅を体験したあげく、人類を超えた「スター・チャイルド」として地球近傍に回帰するのだが、音楽としてリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》が使われていることからして、これはニーチェの「超人」のSF版とも言えよう。さらにキューブリックは、リヒャルト・シュトラウスのほか、ヨハン・シュトラウスの《美しく青きドナウ》、ハチャトゥリアンの《ガイーヌ》、はたまたリゲティの《アトモスフェール》、《ルクス・エテルナ》、《レクイエム》といった多種多様な音楽を自由自在に使い分ける。その選曲の妙は見事と言うほかない。別の側面に注目するなら、《2001年》には、幼年期の記憶を、したがってまた死の恐怖をもつ人工知能 HAL(IBMを1字ずつ前にずらせた名前)が登場するのだが、HALが自らの死を恐れるあまり冬眠中の飛行士たちを殺すシーンは映画史上もっともクールな殺しのシーンであり、そして、ボーマン飛行士が HAL を「殺す」シーンはもっとも哀切な殺しのシーンであると言ってよい。
――「
クリストファー・ノーランの《インターステラー》」(2014年11月22日更新)より引用の上、勝手に編集した。
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仁義なき戦い 広島死闘篇(1973)
《渡世修行もしくは博打うちの流れ者がどこかの一家の世話になる→万事快調→敵対勢力による陰謀、裏切り→我慢強く対処→さらなる陰謀、裏切り→殴り込み→決め台詞→殲滅もしくは相討ち》という、ほぼテンプレ化した東映の任侠映画はしかし、だからこそ各監督の特色をそのメロドラマや活劇に表現していたとは思う(富司純子の官能は、芸者やヒロインのポジションではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際で人を殺していくシーンでこそ艶めかしく輝くことを発見したのはあの偉大なる加藤泰だ)。とすれば、深作以降の実録路線は当時、大きなショックとともに迎えられたに違いない。さらに言えば、『仁義なき戦い』シリーズのなかでも異色であるこの第二作目が、未だにマニア向けのカルトとされているというのも理解できないわけでもない(主人公である菅原文太がほぼ完全に無視されている作品なのである)。そう、撃った撃たれたを繰り返すだけのヤクザ映画が、これほどまでに優れた青春の群像劇になるとは、良識ある映画ファンにとってはなかなか受け入れがたい不都合な事実なのだ。命の大切さや、青春の輝きを説くような道徳観のもっともらしさなど、彼らのあくびすら誘わないだろう。ましてや、自己完結したお決まりのハードボイルドですらない。生きて、生きて、ただ犬のように死ぬだけだ。
《Trailer》
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こわれゆく女(1974)
A WOMAN UNDER THE INFLUENCE
J・カサヴェテスは僕に、「最上の映画」を教えてくれたのだろうか? いや、そうではない。カサヴェテスはただシンプルに「映画の定義」を教えてくれたのだ。無論、それは映画の最低水準でもなければ、くだらない平均的水準などでも決してあり得ない。それは映画とそれ以外とを厳格に区別する、映画の中の映画だけが放つことのできる「定義」そのものだった。実際、『こわれゆく女』を観た直後の僕は、あの唐突な、しかしあれ以外では決して終わらせることのできない方法で映画が終わっていくのを深い沈黙とともに見届けながら、自分がそれまでに曲がりなりにも観てきたそれなりの数の作品群が、映画として比較するという以前に、そもそも映画ですらないことを知ったのだ。『Sight & Sound』誌の2012年版のアンケートを眺めると、日本人監督だけで言っても、園子温が『オープニング・ナイト』を、是枝裕和が『こわれゆく女』を、青山真治が『ラブ・ストリームス』をそれぞれのオールタイム・ベストに挙げていることからも分かる通り、おそらく、カサヴェテスはロック史におけるヴェルヴェット・アンダーグラウンドのような存在である。なぜなら、この作品には、演技をする数人の人間と、それを映すカメラ「しか」ないのだから。人に映画を観させるよりもむしろ、撮らせることになった監督だろう。
《Trailer》
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ビフォア・サンライズ/恋人までの距離(1995)
BEFORE SUNRISE
世の中に多数存在する「映画未満の映画」を、少なくとも今よりも1.5倍はマシなものにするもっとも簡単な方法は、役者たちに与える台詞を従来の1/2程度に削減することだろう。映画は時に、喋りすぎる。そう、この映画を観るまでは僕はそう思っていたし、今でも基本的にはそうだ。だから、これを言ってしまっては身も蓋もないが、結局はセンスの問題なのである。この素晴らしき《ビフォア・三部作》をすべて観てみよう。男と女と車さえあれば、ではなく、「男と女が喋っていさえすれば映画は撮れる」と、「まさに文字通りに雄弁と」主張しているのだ。二人の会話は日常的でも、映画的でもなく、曖昧な饒舌さで観客を魅了する。とは言え、本作の最大の魅力は、そうした会話劇としての完成度よりも、繋がり過ぎた時代を生きる我々からすれば神話的でさえある、「まるで映画のような」ロマンティック・ラブストーリーそのものということでなんら問題はない。「こんな出会いがあったら運命の恋人になるだろう」という相手と、しかし、夜明けまでには別れなければならない「かりそめの恋人」として出逢ってしまうこと。そんな「映画みたいな」巡りあわせに、二人は少しもうろたえないばかりか、この相手となんとしても言葉と身体を交えなければならないことを「最初の一声」で確信しながら、颯爽と電車を降りるのである。
《Trailer》
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ブギーナイツ(1997)
BOOGIE NIGHTS
映画の重厚さは、その主題の重厚さとはいっさい関係がない。同様に、映画の誠実さは、その主題の倫理観とも良識ともいっさいの関係がない。したがって、「全米屈指のデカチンを持つ青年の、ポルノ男優としての栄光と挫折」という、およそ重厚でも誠実でもない主題を持つ映画が、重厚で誠実な映画になってもいささかの問題もないわけだ(逆を言えば、当然のことながら、一見したところ誠実そうな主題を持つ映画が、「映画」に対して誠実だとは限らない。『インターステラ―』という歴史的失敗作を見れば、犬でも理解ができる理屈だ)。P・T・アンダーソンが、敬愛するR・アルトマンから肯定的に継承したのは(言わずと知れた)その群像劇的な物語の手法であり、他方、R・アルトマンを批判することで継承せずに済んだのは、アルトマン的なシニシズムである。続く『マグノリア』では若干、映画が映画を問うような「メタ映画」と化していくわけだが、このデカチンの青春映画には、シニシズムの欠片もなければ、くだらないメタ認識への誘惑もない。ここには、「自分は自分以上の何者かである」と信じて疑わない凡庸な青春を、様々な恩人すらも傷つけながら未練がましく追い求める男の醜い姿と、とてつもない速度で失われていく青春の残光を少しでもカメラに収めようとする映画監督の誠実な姿があるのみだ。
《Trailer》
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愛のむきだし(2008)
LOVE EXPOSURE
メロドラマが単にメロドラマであるとを許されず、悲劇が単に悲劇であることが許される筈もない現代において、園子温が過剰に喜劇的なもの(女子高生のパンチラ、及びその超人的盗撮と勃起)からこの《ボーイ・ミーツ・ガール》の物語を始めなければならなかったのは、むしろ彼の生真面目とさえ言える映画史観に根差すものであろう。スクリーンの長方形の枠には到底収まる筈もないエネルギーで動き回る満島ひかりが、園にとってのジーナ・ローランズ(古き良き映画の象徴)だったのだとすれば、西島隆弘の漂わせる軽薄さは、「映画」や広義の「物語」を脅かす現代病の化身のようである(彼に東映的な意匠(=衣装)が与えられるのも、どこかメロドラマ批判的である)。つまり、この映画のある種の気持ち悪さは、青春映画としての生真面目なまでの自己嫌悪からくるものなのだ。だとすればここでの安藤サクラは、無根拠な狂気(つまり、極めて「園子温的なもの」)として二人のあいだに送り込まれているのだが、しかし園は、結局のところストレートな映画愛に狂気的なまでに服従している。物語はとてつもない速度で急旋回しながら、いっさいの自己嫌悪と映画への批判精神を捨て去り、メロドラマの極致に突入いていくのだ。
《Trailer》
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レスラー(2008)
THE WRESTLER
ヴェネチアで金獅子賞を受賞している本作を、今さらながらに名作だの傑作だのと言うつもりは毛頭ない。なぜなら、『レスラー』は、「男と女」の関係であるとか、「父と娘」の関係だとかいった、通常の映画であれば主題たり得る人間と人間の関係性を、あっさりと放棄してしまうからだ。つまり、この映画は物語論的に見れば、完全に破綻している。強いて言うならば、「ひとりのピークを過ぎた男の実存の問題」が主題として朽ちた大木のように横たわっているのだが、しかし、それはあくまでも腐った大木に過ぎないのだ。であれば、この映画がこれほどまでに人間を狂わせるのはなぜなのか? それは、おそらく、この人生最良のときをすでに通過してしまったレスラーが、人生を何度生き直してみようとも同じ結末を選ぶであろうということを、つまり、この映画が何度撮り直されようとも僕たちはこの結末しか見られないのだろうということを、確信させてしまうところに関係がある。そう、映画の終幕間際、ガンズ・アンド・ローゼズの名曲が完璧なタイミングで鳴り響くなかでこの男が浮かべる微笑は、「何かに魂を売り渡した人間だけが浮かべることのできる微笑み」なのだ。その意味において、男は魂を売り渡したその時点で、生きながらにして一度死んでいるのである。彼をリングの床に引き寄せるのは、だから、重量などでは断じてなく、もっと悪魔じみた何かに違いない。
わたしはロランス(2012)
LAURENCE ANYWAYS
誰しもが、もはや純粋なメロドラマなど撮れないと信じて疑わない2010年代の今日、ひとりの美しい顔を持つゲイの青年が、荒野と化したメロドラマのいばら道を、王様のような態度で歩いてくる。誰しもが、彼を止めようと言葉を発しかける。しかし、彼の確信に満ちた態度に圧倒され、この長編を試しに観てみると、メロドラマの困難さは映画史的な問題ではなく、あくまでもそれに挑んできた映画人たちのセンスと才能の問題に過ぎなかったのだということを、理解するはめになるだろう。LGBTという題材をファッショナブルに消化する態度には疑問の声もあるだろうが、しかし、LGBTを題材とする映画がどこか社会的なシリアスさから逃れられなかったのだとすれば、現実の世界をはるかに見下しながら、唯我独尊とも言えるメロドラマに仕上ってしまったこの『わたしはロランス』を僕は否定できない。しかも、この映画は「男と女が車に乗ってトラブルから逃げる」という、映画史的に極めて正統的なポーズさえ取って見せるのである。しかし、「世界の果てへの旅」は、女によってあっさりと中断させられる。なぜなら、ここでの男は「女」なのだから。二人はどうして世界の果てまであのまま歩いて行ってしまうことができなかったのかと、僕たちにはただ祈ることしかできない。
《Trailer》
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