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19 March

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16 June

Film: 海街diary




◎映画『海街diary』を合評にて批評する。


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フィクションの力を信じるためにこそ、この「いい話」を否定すべきである。

 吉田秋生の『海街diary』を是枝監督が映画化すると聞いたときは、「ああ、なるほどね」としか思えなかった。吉田のその作品を僕は連載開始からずっと読んでいて、そして「これは世で評価されるマンガなんだろうな」と予想していたが、果たしてその通りになった。複雑な家庭環境――あるいは、親たちの都合――の下でバラバラになった姉妹たちが、親を捨て、鎌倉の風情ある街の四季の移り変わりをバックに寄り添っていく物語。その街で、それぞれの事情を抱えながら、だけど少しずつ思いやり合って生きていく人びと。……いい話である。でもそれは、僕にはあらかじめ「いい話だね」と落ち着ける場所が用意されているように思えてならない。

 だからこの映画化は完璧だ。鎌倉の四季の移り変わりを捉えた映像は本当に映画的で、美しい……これは、皮肉ではなく。マンガの印象的なエピソードをピックアップし、重ねていく日々は『歩いても 歩いても』ほど目的に向かって回収されていくこともなく、そこはエリック・ロメール的だと言えなくもない。そして是枝らしい演出も冴え、食べもの、というもの以上に食卓が人びとをつなぎ、血のつながりが分断されようとも、新たな共同体は形成されていく。

 それでも、やはりこれは観客が期待する「いい話」と共依存関係にある映画だろう。池田貴史が登山の際の凍傷で失った足指(これはマンガにもあるエピソードである)を姉妹に「見ます?」というシーン。もちろんその足指は披露されず、カメラにも映されず、マンガのエピソードをきちんと拾っていますよというポーズとともにちょっと可笑しい一幕として通過されるだけだ。見たくないものはこの映画では見なくてもいい。あるいは、長女と四女が高台で叫ぶシーンの取ってつけたようなまとめ感、それが観客たちの期待するものだともし監督が思っていたとすれば、それはぬるま湯だと言いたくなってしまう。
 
 『誰も知らない』の元となった事件では、ここでは詳しく書かないがもっと悲惨な顛末があったそうだ。現実で社会から見棄てられた少年は逞しく生き抜いたのではなく、人間らしさを失っていった。だけどもそれは映画では採用されず、代わりにタテタカコの柔らかい歌声が導入され、観客は柳樂優也とともに妹を葬った気分に「なれてしまう」。酷薄な社会はこの兄弟を見捨てた、だけどわたしたちは最後まで見守ったという気分にさせてしまう。

 映画はフィクションなのだから、現実を克明に描かなければならないということではない、むしろどんどん変えていく力を持つべきだ。だが、だからこそ、フィクションの力を信じるためにこそ、映画が観客を安心させるものであってほしくはないのだ。
 
 今年のカンヌ映画祭、日本の多くのメディアでは「日本の作品が」という主語でこの映画ばかりを取り上げていた(まあいつものことだから驚かないけれども、ジャック・オディアールのパルム受賞作にすら触れないものはさすがにどうかと思うが)。今年の受賞結果は、日本人の多くの観客の「期待」に応えるものではなかった。

(文=木津毅


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「私はこれを覚えている」と思うことがどこまでも許される映画


 ある男の「不在」を共有することで立ち上がる物語であるにも関わらず、是枝裕和の新作『海街diary』において、その男のかつての姿を写真で確かめようとする者は誰一人としていない(唯一、父の記憶をほとんど持たない三女だけが、そうした行為を過去にしたことがあると証言しはするのだが、それもさほど効力を持つものではないらしい)。もちろん、『ワンダフルライフ』(1999)のような突飛な設定を含む作品においてさえ、フィクションの世界でも生真面目なリアリズムの描写に徹してきた是枝映画にあって、本作に限って、写真やカメラという文明が存在しないSF的設定などが採用されている筈もない(冒頭、ヒモのような甘やかし方をしている恋人の隣で眠る次女(長澤まさみ)を起こすのは、メールの着信を知らせるスマートフォンのバイブレーションだ。この物語の世界でもカメラや写真といった文明はありふれているかに見える)。

 しかし、例えば、父の葬儀の帰り道、父の持ち物に含まれていたらしい何枚かの古い写真を出会ったばかりの四女(広瀬すず)から手渡された3人の姉たちは、その束を一緒にめくるものの――そのうちの一枚くらいは父なり母なりが写っていてもよさそうなのだが――単に自分たちの幼い頃の姿をひやかし合うに過ぎないのだ。あるいは、三女(夏帆)の恋人なのか最後まで明らかにならない熊のような男(三女が勤務するスポーツ用品店の店長)が、女たち全員を前に、自分がかつて活発な登山家であり、不運にもエベレストで遭難し、足の指を6本失くしたというエピソードを披露し、その足を見るか、なんなら写真に撮ってもよいとおどけてみせるシーンがあるのだが、まるでそれが禁じられた行為でもあるかのようにして、女たち全員が気まずそうに口をつぐみ、長女(綾瀬はるか)が4人を代表してそれを拒んだりする。

 では、写真とはなんであったか。なぜ、『海街diary』において、写真はこのような扱いを受けているのだろうか。手がかりとしてロラン・バルトの古典『明るい部屋』を思い起こすのであれば、一義的には、写真が伝えるのは「それ(被写体)はかつて(そこに)あった」という手に負えないほどの《事実性》であった。そして、こちらがより重要かつ稀少なのだが、「(被写体が現実に漂わせていた雰囲気とは)これだ!」「このとおり、そう、このとおり、まさにこのとおり!」という《真実性》を、極めて小さな確率で、(おそらくは特定の人間関係を有していた者にだけ)伝えることができるのだという。後者の《真実性》に関しては、バルト自身が認めるように、ガチガチに理論化された言説ではない。しかし、《事実性》と《真実性》ということで言えば、かのロベール・ブレッソンまでもが(『シネマトグラフ覚書』において)こんな非・理論的なことを書いている――「生(き)のままの現実は、ただそれだけでは真なるものを提示はしまい」。

 是枝裕和が鎌倉に集めた4人の女たち(と、その周囲に親密に形成される小さな人間関係)は、バルトやブレッソンの非・理論をそうとは知らずに実践する(というか、それが実践されているからこそ維持可能な)共同体である。彼女たちにとって、戸籍や血縁、写真といった《事実的なもの》はさして重要ではないのだ。実際、父の3人目の妻(4人の誰から見ても他人)のもとで義弟と暮らす四女を、山形から鎌倉へ越すように誘う3人の素振りは、さながら友人をお茶か映画にでも誘うような軽さであり、またそれがどのようにして実現したのかは語られない。女たちは《事実的なもの》が築き上げる壁を、さも何でもないかのように軽々と飛び越えてしまう(とは言え、四女の耳の形や基本的な人間性が長女と似ていたり、酔った時の乱れっぷりが次女顔負けのものであったり、食べ物の好みが三女と近かったり、そうした《事実的なもの》を発見したときの姉たちの照れた喜びの表情は悪くない)。

 では、この映画において非・理論的に作用する《真実的なもの》とは何か。おそらく、それは「記憶」である。例えば、食べ物のレシピに宿る記憶、人の残した言葉に宿る記憶、もしくは、ある風景に宿る記憶が、映画のすぐ横を静かに通り過ぎてゆくのだが、それに手を伸ばそうとした者の手と手がふと触れ合う時、《真実的なもの》が静かにグルーヴし始める。何かを食べ、誰かの話を聞き、どこかの風景を眺めて、「これだ、そう、これだ、まさにこれだ!」と記憶を非・理論的に確信し、誰かと共有すること。そして、その記憶の連なりから立ち上がる知られざる人間関係(ここでは、父のかつての友好関係など)を想像すること。あるいは、自分もその一部にすでに加わっているのだということを知ること。言ってみれば戸籍上の、あるいは生物学上の共通の父を持つ、ということに「過ぎない」この不確かな4人組は、それらの記憶を共有することによって(周囲の人を巻き込みながら)徐々に結ばれていく。逆に、記憶の宿る買い物(箸!)を長女に拒まれたある男は、間もなくこの関係性からはじかれてしまうし、記憶の象徴(家!)を処分しようとする3人の実の母親も、素早い退場を迫られる。《事実的なもの》が担保する制度としての「家族」ではなく、《真実的なもの》が非・理論的に形成する「共同体」へ。是枝映画はここでひとつの結論へと達しているかに見える。

 また、これはささやかな贈り物に過ぎないのだが、自転車の滑走シーンに宿るトリュフォーの記憶や、意味もなく長女を鐘の音で振り向かせてみるシーンや、すぐに止む雨を降らせて長女と母親に傘を持たせてみたりするシーンや、映画の大半の時間を占める縁側や食卓(ちゃぶ台)でのシーンに宿る小津・成瀬の記憶は言うに及ばず、これまでの是枝映画そのもの(例えば、階段の拭き掃除をする長女の姿は1995年の『幻の光』で既に見ているし、「死を目前に何を思い出すか」という問いは1999年の『ワンダフルライフ』の主題そのものであるし、「こども達だけで形成される家族」という題材は2004年の『誰も知らない』と年齢的な相似を成しているし、3世代にまたがる家族・親族・共同体の関係性は2008年の『歩いても 歩いても』でさりげなく準備されていたし、四女が転校先で形成する4人組は前田旺志郎の姿とともに2011年の『奇跡』を思い出させ、「血か記憶か」という対比は2013年の『そして父になる』においていささか極端な二択で問われていたし、そもそも親の違う姉妹を扱う物語は、漫画の映画化と言うよりは成瀬の『稲妻』の意識的な再現でもある)を含む「映画」に宿る記憶を通じて――たとえ原作漫画という記憶を持ち合わせない筆者のような人間であろうと――観客はスクリーン上に形成される共同体の一部へと心地よく溶け込んでゆくだろう。

 これから新たな「記憶」となっていくのであろう、数々の風景や食べ物(桜のトンネル、海の上での打ち上げ花火、4人で歩く砂浜、シラスのトースト、梅酒、アジフライなど)の前をカメラは通過し、また、お近づきの印として、3人の姉たちが四女へそれぞれに持ちかける小さな秘密(山の頂上からの絶叫、小指だけのマニキュア、ちくわカレーなど)をカメラは見守ってゆくのだが、是枝裕和その人も、それらを決して「風景《写真》的な美しさ」ではカメラに収めていないし、物語の側にあっても、そこでスマホを取り出し、記憶を写真に留めようとする者など誰一人としていないのは言うまでもない。直近では、例えばグザヴィエ・ドランの『マミー』では、共同体の記録・確認のためにスマホによる「自撮り」がさっそく導入されていたことを考えれば、本作の打ち出す映画的な思想は明確である。(なお、物語のなかで唯一、幾度となく突っかかり合う長女と次女が一枚の写真で盛り上がるシーンがあるのだが、それはまさにバルトが母親の写真のうちのたった一枚に反応したように、思わず「これだ!」となってしまう《真実の写真》だったに違いないのだが、その写真が誰のものであるかは触れずにおこう。)

 また、ポストモダン映画の代表作とも言えるデヴィッド・クローネンバーグの『コズモポリス』において、ウォール街でのそれを思わせる大規模なデモで足止めを喰らう白いリムジンの中から、路上で焼身自殺に及んだ者を一瞥して「あれはパクリだ、オリジナルじゃない(ので価値がない)」と嘲笑うシーンがあったことを思い出してほしい。そこはまるで、何かを記憶し、何かを思い出し、目の前の光景に既視感を覚えることは罪であるかのような世界だった。しかし、この『海街diary』では、物事そのものではなく、そこに宿る記憶(=《真実的なもの》)を肯定してゆくことによって、甘美なグルーヴが続いてゆく。そう、《事実的なもの》が崩した家族を、《真実的なもの》を共有することで再生すること。できれば、より大きな共同体として。こうやって図式的に整理してしまえば単に反動的な物語と思えなくもないが、しかし、『海街diary』においては、何かを記憶することは何ら罪ではなく、「私はこれを覚えている」という既視感を誰かと分かち合うことはどこまでも許されているのだ。

(文=竹内正太郎


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28 February

Filmarks - February 2015







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いわゆる「音楽史に残る名盤」みたいなものからそのアーティストを聴き始めることの手軽さと隣り合わせの危険、つまり、「スタートの地点で誤解し合ったままそのアーティストと永遠にすれ違ってしまう危険」を曲がりなりにも承知している身としては、「映画史に残る不朽の名作」から貴重な映画作家のフィルモグラフィーに触れるという愚行だけは自らに禁じています。現在、F・フェリーニの『8 1/2』を迎え撃つべく、『青春群像』、『道』、『崖』、『カビリアの夜』、『甘い生活』を、あるいはA・ヒッチコックの『めまい』を観る資格を得るべく、『裏窓』、『ダイヤルMを廻せ!』と急に接近し過ぎた足を『三十九夜』にまで戻し、以降、『バルカン超特急』、『レベッカ』、『疑惑の影』、『救命艇』というように、着実な接近を進めています。

さて、映画レビューに特化したSNSである《Filmarks》ですけれども、さすがにツイッターあたりに比べると登録ユーザー数はまだまだ全然ですが、タイムラインを知らない映画がさらさら流れて行くのを眺めているのは純粋に楽しいです。ガチなレビューというよりは、簡易な備忘録として優れていると思います。以下、2月に観た映画のまとめです。前回と同様、特に印象に残ったものを赤字強調しています。TSUTAYAに行った時の参考に多少なりともなれば幸いです。しかし、2月はあまり映画館に行けなかったなー。


《劇場》
■ アメリカン・スナイパー(2/23)


《DVD》
■ 捜索者(1/31)
■ 許されざる者(2/1)
■ ノーカントリー(2/1)
■ アメリカの影(2/3)
■ オープニング・ナイト(2/4)
■ ブロークン・フラワーズ(2/6)
■ ダイヤルMを廻せ!(2/7)
■ デッドマン(2/8)
■ 崖(2/8)
■ 飾窓の女(2/9)
■ 忘れられた人々(2/10)
■ 山の音(2/11)
■ シェルブールの雨傘(2/11)
■ 野いちご(2/12)
■ フェイシズ(2/12)
■ 天才マックスの世界(2/13)
■ 黄金(2/14)
■ ファンタスティック Mr.FOX(2/14)
■ バンド・ワゴン(2/15)
■ 青春群像(2/15)
■ カビリアの夜(2/15)
■ 暗黒街の弾痕(2/20)
■ 自転車泥棒(2/20)
■ 雨に唄えば(2/21)
■ 都会のアリス(2/21)
■ バッド・チューニング(2/22)
■ 甘い生活(2/25)
■ 三十九夜(2/25)
■ バルカン超特急(2/25)
■ レベッカ(2/26)
■ 疑惑の影(2/27)
■ 救命艇(2/28)


以上、劇場で1作、DVD等で32作でした(年間累計で、劇場6作、DVDで70作)。予想以上のアクセスを頂けたので、《例の映画リスト》の続編を考えています!

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31 January

List: Favorite 10 Films 《TSUTAYAで3年もアルバイトをしていたのに映画などほとんど観なかった僕をいつの間にか映画狂に変えてしまった悪魔の映画10作について語るときに僕の語ること》

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。

――『リュミエール』誌、1985年秋号の《創刊の辞》より引用

 これからここに公開するリストは、いわゆる「映画史に刻まれた名作選10」ではない。そんなものを選べるほどの数を見ていないという自覚くらいはあるし、仮に、月に40作ほど観ている計算になる現在のペースでこの一年を過ごしたとしても、そんなリストを組む資格が得られるにはほど遠いだろう。だからこれは、あくまでも一つの個人史的な事実として、僕の人生を変えてしまった映画の素朴な羅列に過ぎない。したがって、このリストは誰かとセンスや知識を競うものでもあり得ない。10作というといかにも名作選風だが、改めて過去を振り返ったときに、僕に決定的な影響を与えている作品の数が10作よりも少ないということはなく、また、10作よりも多いということもない、ということが結果として明らかになったので、便宜的にだがベスト10風の形式をとることになったことだけ断っておく。なお、掲載は時系列の順である。

 個人史に徹するため、いくつか告白しておくべきことがある。まず、僕が映画を本格的に観るようになったのはここ数年のことである。これでも一応、音楽ライターの末席を汚す身として、映画のことを勉強することが音楽の評論の方で活かせれば、という下心があったのである。しかし、そんなことが容易くできないことを知るばかりか、利用しようと思っていた映画にむしろ「喰われて」しまったのだ。それほどまでに強い映画の魔力に圧倒されていく一方で、例えば同年代のライターにしろ、若手批評家と呼ばれる人たちにしろ、お勉強したばかりの映画評が音楽のアルバム評や社会評論のおかずに使われることほど醜悪なものはなく、その辺の話題作を定点観察したのちに提出されるカルチャー時評的なものには何の可能性も感じられない、ということに気付く程度の感受性がまだ自分のなかに残っていたことを発見したのだった。

 映画を輝かせる言葉を見つけられないのならばせめて映画に言葉を奪われたあとの沈黙を知る人間でいようじゃないか。僕に憑りついた悪魔が、これを読むあなたにも見えたならばそれに勝る幸いはない。


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夜の人々(1948)
THEY LIVE BY NIGHT

ある日、男と女が出会う。男と女は、トラブルに巻き込まれる。あるいは、人を殺め、金を盗む。追っ手が迫る。二人の前には、車が一台ある。やることは一つしかない。このようにして、「物語」というものが神格化されてしまった現代に生きる私たちからすれば呆気にとられるほど、もしくは嫉妬で気が狂いそうになるほどあっさりと、男と女が車に乗り込むというだけのことで、「物語」は始まるのだ。にも関わらず、筋書きからしてこの物語の終わりが主人公の「死」以外にはあり得ないということを冒頭の段階で早くも確信せざるを得ない『夜の人々』という映画にとって、観客の物語論的な関心はいささかも重要ではない。なぜなら、この二人は、何も司法や警察の手からのがれるために車に乗り込んだのではないからだ。それはあくまでも口実に過ぎず、後年、この『夜の人々』を重要な参照元の一つとして撮られることになる、ゴダールの最高傑作と名高い『気狂いピエロ』でハッキリと代弁されるとおり、それは「腐った世界を捨て去るチャンス」だったのだ。したがって、彼らが目指したのは実際的にも象徴的にも「南」などではあり得ず、直訳すれば「夜の近くで生きる人びと」という原題を持つこの映画にとって真にふさわしい邦題は、セリーヌの長編に与えられた『夜の果てへの旅』だったに違いない。

Trailer

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道(1954)
LA STRADA

映画史に名高い、中盤のあの忘れがたい「石ころ」のシーン。あそこで男から女に投げかけられる言葉を素朴に受け止め、劇中の女と同じように感激してしまう人がいるが、それは根本的に違う。あそこで男が投げかけるちょっとした哲学風の言葉は、今となっては三流のJーポップ・バンドが様々にバリエーションを変えて歌っているような、凡庸極まりないものだ。したがって、私たちがあの石ころのシーンで深い沈黙にとらわれるのは、あの言葉そのものの力ではあり得ない。そうではなく、あの言葉を受けてパッと明るくなる女の表情、炎が灯るかのように目が輝きを放つ小さな事件、あの子どものような純粋さ、それこそがこの映画のすべてである。ひとつの言葉で世界の見え方が一瞬で変わってしまう、生き方さえも変わってしまう、その魔法じみた瞬間にぶち当たったときの人間が浮かべる困惑にも似た革命の表情を、私たちはこの映画で目撃するのだ。しかし、女が連れ添うべきは、人身売買で買われた旅芸人の男の方であり、彼にはそのような哲学的なものの考え方は存在しないのだ。やがて旅は二人を分かつが、数年後、女の「近況」を知ったときに男が浮かべる表情は、あらゆる人類の失意を代表するかのように、私たちから言葉という言葉を奪ってゆく。

Trailer

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2001年宇宙の旅(1968)
2001: A SPACE ODYSSEY

およそ考え得る中で、完全な映画である。大衆性、実験性、政治性を思いのままに操った67、68年の(一般に黄金時代と呼ばれる)ロックでさえ、これに匹敵する作品を何ひとつとして遺していないのではないかと悟るとき、あなたはそれでも「まともな」音楽ファンでいられるだろうか。そんな完全な映画を前に、筆者如きが言えることなど何もない。かわりに、浅田彰のいかにも「お仕事」風に書かれた『インターステラー』評が、どう読んでも『2001年』を改めて称賛する文章にしかなっていなかったのが面白かったので、該当箇所を勝手に再編集して引用してみよう。

Trailer

《2001年》は、人間には理解不能なものをそのまま示して謎のまま終わる。月面で発見されたモノリスの発する信号に導かれて、巨大な精子を思わせる宇宙船で木星近傍の「スター・ゲート」に到達したボーマン飛行士が、その彼方で時空を横断する旅を体験したあげく、人類を超えた「スター・チャイルド」として地球近傍に回帰するのだが、音楽としてリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》が使われていることからして、これはニーチェの「超人」のSF版とも言えよう。さらにキューブリックは、リヒャルト・シュトラウスのほか、ヨハン・シュトラウスの《美しく青きドナウ》、ハチャトゥリアンの《ガイーヌ》、はたまたリゲティの《アトモスフェール》、《ルクス・エテルナ》、《レクイエム》といった多種多様な音楽を自由自在に使い分ける。その選曲の妙は見事と言うほかない。別の側面に注目するなら、《2001年》には、幼年期の記憶を、したがってまた死の恐怖をもつ人工知能 HAL(IBMを1字ずつ前にずらせた名前)が登場するのだが、HALが自らの死を恐れるあまり冬眠中の飛行士たちを殺すシーンは映画史上もっともクールな殺しのシーンであり、そして、ボーマン飛行士が HAL を「殺す」シーンはもっとも哀切な殺しのシーンであると言ってよい。

――「クリストファー・ノーランの《インターステラー》」(2014年11月22日更新)より引用の上、勝手に編集した。

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仁義なき戦い 広島死闘篇(1973)

《渡世修行もしくは博打うちの流れ者がどこかの一家の世話になる→万事快調→敵対勢力による陰謀、裏切り→我慢強く対処→さらなる陰謀、裏切り→殴り込み→決め台詞→殲滅もしくは相討ち》という、ほぼテンプレ化した東映の任侠映画はしかし、だからこそ各監督の特色をそのメロドラマや活劇に表現していたとは思う(富司純子の官能は、芸者やヒロインのポジションではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際で人を殺していくシーンでこそ艶めかしく輝くことを発見したのはあの偉大なる加藤泰だ)。とすれば、深作以降の実録路線は当時、大きなショックとともに迎えられたに違いない。さらに言えば、『仁義なき戦い』シリーズのなかでも異色であるこの第二作目が、未だにマニア向けのカルトとされているというのも理解できないわけでもない(主人公である菅原文太がほぼ完全に無視されている作品なのである)。そう、撃った撃たれたを繰り返すだけのヤクザ映画が、これほどまでに優れた青春の群像劇になるとは、良識ある映画ファンにとってはなかなか受け入れがたい不都合な事実なのだ。命の大切さや、青春の輝きを説くような道徳観のもっともらしさなど、彼らのあくびすら誘わないだろう。ましてや、自己完結したお決まりのハードボイルドですらない。生きて、生きて、ただ犬のように死ぬだけだ。

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こわれゆく女(1974)
A WOMAN UNDER THE INFLUENCE

J・カサヴェテスは僕に、「最上の映画」を教えてくれたのだろうか? いや、そうではない。カサヴェテスはただシンプルに「映画の定義」を教えてくれたのだ。無論、それは映画の最低水準でもなければ、くだらない平均的水準などでも決してあり得ない。それは映画とそれ以外とを厳格に区別する、映画の中の映画だけが放つことのできる「定義」そのものだった。実際、『こわれゆく女』を観た直後の僕は、あの唐突な、しかしあれ以外では決して終わらせることのできない方法で映画が終わっていくのを深い沈黙とともに見届けながら、自分がそれまでに曲がりなりにも観てきたそれなりの数の作品群が、映画として比較するという以前に、そもそも映画ですらないことを知ったのだ。『Sight & Sound』誌の2012年版のアンケートを眺めると、日本人監督だけで言っても、園子温が『オープニング・ナイト』を、是枝裕和が『こわれゆく女』を、青山真治が『ラブ・ストリームス』をそれぞれのオールタイム・ベストに挙げていることからも分かる通り、おそらく、カサヴェテスはロック史におけるヴェルヴェット・アンダーグラウンドのような存在である。なぜなら、この作品には、演技をする数人の人間と、それを映すカメラ「しか」ないのだから。人に映画を観させるよりもむしろ、撮らせることになった監督だろう。

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ビフォア・サンライズ/恋人までの距離(1995)
BEFORE SUNRISE

世の中に多数存在する「映画未満の映画」を、少なくとも今よりも1.5倍はマシなものにするもっとも簡単な方法は、役者たちに与える台詞を従来の1/2程度に削減することだろう。映画は時に、喋りすぎる。そう、この映画を観るまでは僕はそう思っていたし、今でも基本的にはそうだ。だから、これを言ってしまっては身も蓋もないが、結局はセンスの問題なのである。この素晴らしき《ビフォア・三部作》をすべて観てみよう。男と女と車さえあれば、ではなく、「男と女が喋っていさえすれば映画は撮れる」と、「まさに文字通りに雄弁と」主張しているのだ。二人の会話は日常的でも、映画的でもなく、曖昧な饒舌さで観客を魅了する。とは言え、本作の最大の魅力は、そうした会話劇としての完成度よりも、繋がり過ぎた時代を生きる我々からすれば神話的でさえある、「まるで映画のような」ロマンティック・ラブストーリーそのものということでなんら問題はない。「こんな出会いがあったら運命の恋人になるだろう」という相手と、しかし、夜明けまでには別れなければならない「かりそめの恋人」として出逢ってしまうこと。そんな「映画みたいな」巡りあわせに、二人は少しもうろたえないばかりか、この相手となんとしても言葉と身体を交えなければならないことを「最初の一声」で確信しながら、颯爽と電車を降りるのである。

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ブギーナイツ(1997)
BOOGIE NIGHTS

映画の重厚さは、その主題の重厚さとはいっさい関係がない。同様に、映画の誠実さは、その主題の倫理観とも良識ともいっさいの関係がない。したがって、「全米屈指のデカチンを持つ青年の、ポルノ男優としての栄光と挫折」という、およそ重厚でも誠実でもない主題を持つ映画が、重厚で誠実な映画になってもいささかの問題もないわけだ(逆を言えば、当然のことながら、一見したところ誠実そうな主題を持つ映画が、「映画」に対して誠実だとは限らない。『インターステラ―』という歴史的失敗作を見れば、犬でも理解ができる理屈だ)。P・T・アンダーソンが、敬愛するR・アルトマンから肯定的に継承したのは(言わずと知れた)その群像劇的な物語の手法であり、他方、R・アルトマンを批判することで継承せずに済んだのは、アルトマン的なシニシズムである。続く『マグノリア』では若干、映画が映画を問うような「メタ映画」と化していくわけだが、このデカチンの青春映画には、シニシズムの欠片もなければ、くだらないメタ認識への誘惑もない。ここには、「自分は自分以上の何者かである」と信じて疑わない凡庸な青春を、様々な恩人すらも傷つけながら未練がましく追い求める男の醜い姿と、とてつもない速度で失われていく青春の残光を少しでもカメラに収めようとする映画監督の誠実な姿があるのみだ。

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愛のむきだし(2008)
LOVE EXPOSURE

メロドラマが単にメロドラマであるとを許されず、悲劇が単に悲劇であることが許される筈もない現代において、園子温が過剰に喜劇的なもの(女子高生のパンチラ、及びその超人的盗撮と勃起)からこの《ボーイ・ミーツ・ガール》の物語を始めなければならなかったのは、むしろ彼の生真面目とさえ言える映画史観に根差すものであろう。スクリーンの長方形の枠には到底収まる筈もないエネルギーで動き回る満島ひかりが、園にとってのジーナ・ローランズ(古き良き映画の象徴)だったのだとすれば、西島隆弘の漂わせる軽薄さは、「映画」や広義の「物語」を脅かす現代病の化身のようである(彼に東映的な意匠(=衣装)が与えられるのも、どこかメロドラマ批判的である)。つまり、この映画のある種の気持ち悪さは、青春映画としての生真面目なまでの自己嫌悪からくるものなのだ。だとすればここでの安藤サクラは、無根拠な狂気(つまり、極めて「園子温的なもの」)として二人のあいだに送り込まれているのだが、しかし園は、結局のところストレートな映画愛に狂気的なまでに服従している。物語はとてつもない速度で急旋回しながら、いっさいの自己嫌悪と映画への批判精神を捨て去り、メロドラマの極致に突入いていくのだ。

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レスラー(2008)
THE WRESTLER

ヴェネチアで金獅子賞を受賞している本作を、今さらながらに名作だの傑作だのと言うつもりは毛頭ない。なぜなら、『レスラー』は、「男と女」の関係であるとか、「父と娘」の関係だとかいった、通常の映画であれば主題たり得る人間と人間の関係性を、あっさりと放棄してしまうからだ。つまり、この映画は物語論的に見れば、完全に破綻している。強いて言うならば、「ひとりのピークを過ぎた男の実存の問題」が主題として朽ちた大木のように横たわっているのだが、しかし、それはあくまでも腐った大木に過ぎないのだ。であれば、この映画がこれほどまでに人間を狂わせるのはなぜなのか? それは、おそらく、この人生最良のときをすでに通過してしまったレスラーが、人生を何度生き直してみようとも同じ結末を選ぶであろうということを、つまり、この映画が何度撮り直されようとも僕たちはこの結末しか見られないのだろうということを、確信させてしまうところに関係がある。そう、映画の終幕間際、ガンズ・アンド・ローゼズの名曲が完璧なタイミングで鳴り響くなかでこの男が浮かべる微笑は、「何かに魂を売り渡した人間だけが浮かべることのできる微笑み」なのだ。その意味において、男は魂を売り渡したその時点で、生きながらにして一度死んでいるのである。彼をリングの床に引き寄せるのは、だから、重量などでは断じてなく、もっと悪魔じみた何かに違いない。

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わたしはロランス(2012)
LAURENCE ANYWAYS

誰しもが、もはや純粋なメロドラマなど撮れないと信じて疑わない2010年代の今日、ひとりの美しい顔を持つゲイの青年が、荒野と化したメロドラマのいばら道を、王様のような態度で歩いてくる。誰しもが、彼を止めようと言葉を発しかける。しかし、彼の確信に満ちた態度に圧倒され、この長編を試しに観てみると、メロドラマの困難さは映画史的な問題ではなく、あくまでもそれに挑んできた映画人たちのセンスと才能の問題に過ぎなかったのだということを、理解するはめになるだろう。LGBTという題材をファッショナブルに消化する態度には疑問の声もあるだろうが、しかし、LGBTを題材とする映画がどこか社会的なシリアスさから逃れられなかったのだとすれば、現実の世界をはるかに見下しながら、唯我独尊とも言えるメロドラマに仕上ってしまったこの『わたしはロランス』を僕は否定できない。しかも、この映画は「男と女が車に乗ってトラブルから逃げる」という、映画史的に極めて正統的なポーズさえ取って見せるのである。しかし、「世界の果てへの旅」は、女によってあっさりと中断させられる。なぜなら、ここでの男は「女」なのだから。二人はどうして世界の果てまであのまま歩いて行ってしまうことができなかったのかと、僕たちにはただ祈ることしかできない。

Trailer

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31 January

Filmarks - January 2015







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映画レビューに特化したSNSである《Filmarks》を始めてみました。ツイッターなどでの広告打ちまくりな感じはともかく、実際的な話、スマホ用のアプリ版は非常に使いやすいと思います(それまでは、無地の手帳を買って、観た日付、場所、寸評、監督名、その監督の他の主要作をその都度メモし、たまに見返しては気付きを得ていたわけですが、その全機能が備わっているのです)。そちらはそちらでやるとして、せっかくブログを再開したことだし、こちらにも映画の観たものリストを残しておこうかなと。特に印象に残ったものを赤字強調しています。年末に観たものもなんとなく今年の体験として残っているので、入れておきます。


《劇場》
■ フランシス・ハ(12/30)
■ 華氏451(1/3)
■ 突然炎のごとく(1/3)
■ 終電車(1/10)
■ 夜霧の恋人たち(1/17)


《DVD》
■ メランコリア(12/27)
■ ムーンライズ・キングダム(12/27)
■ そして父になる(12/28)
■ her 世界でひとつの彼女(12/29)
■ ツリー・オブ・ライフ(12/30)
■ ビフォア・ミッドナイト(12/31)
■ ウルフ・オブ・ウォールストリート(12/31)
■ バッド・ルーテナント(1/1)
■ ブルー・ジャスミン(1/2)
■ アンダー・ザ・スキン 種の捕食(1/5)
■ 復讐は俺に任せろ(1/6)
■ めし(1/7)
■ 生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言(1/7)
■ ピアニストを撃て(1/8)
■ あこがれ(1/8)
■ 女は女である(1/10)
■ ブンミおじさんの森(1/12)
■ パーマネント・バケーション(1/12)
■ ストレンジャー・ザン・パラダイス(1/12)
■ ダウン・バイ・ロー(1/12)
■ 果てなき航路(1/13)
■ モンキー・ビジネス(1/14)
■ コーヒー&シガレッツ(1/15)
■ バトル・ロワイアル(1/16)
■ アメリカン・ビューティー(1/17)
■ 夜の人々(1/17)
■ マグノリア(1/18)
■ ダンサー・イン・ザ・ダーク(1/18)
■ チャドルと生きる(1/19)
■ 息子の部屋(1/21)
■ モンスーン・ウェディング(1/21)
■ グラディエーター(1/22)
■ マグダレンの祈り(1/24)
■ ブラディ・サンデー(1/25)
■ 昭和残侠伝 死んで貰います(1/25)
■ 気狂いピエロ(1/25)
■ 裏窓(1/28)
■ 無防備都市(1/29)


以上、劇場で5作、DVD等で38作でした(今日もこれから観るけど)。《例の映画リスト》も間もなく公開します!

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02 January

Film: Before Midnight



映画『ビフォア・ミッドナイト』の感想

あらすじ》*《予告編

 学生時代、TSUTAYAでアルバイトをしていたのだが、お客さんが返却したDVDを棚に戻しに行くとき、僕はラブ・ストーリーのコーナーをどこか軽視していたように思う。いや、「思う」などという無責任な言い方は往生際が悪いか。「こんなものを観て感動している奴は、もっと実際の恋愛で有利になることを頑張った方がいい」くらいのことを考えていた。そしてそれは、映画という芸術そのものを軽視していた、ということなのかもしれない。

 今になって思えば、同じような淡いカラーリングのパッケに、優しいフォントで似たような邦題がズラリと並ぶあの棚の中に、『恋人までの距離』という邦題(副題)を与えられた『ビフォア・サンライズ』も紛れていたのだと思うと、自分の浅はかさが恥ずかしくなる。あの頃の自分は、もっと大きなテーマの映画を好んでいた気がする(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、『ノーカントリー』、『ダークナイト』、『イントゥ・ザ・ワイルド』、、、)。それが高尚なことだと思っていたのだ。そういう愚かしい時代が誰にでもある。

 この歳になってから観た『ビフォア・サンライズ(恋人までの距離)』は二つの意味で衝撃的だった。一つは、運命論な悲劇としての愛ではなく、運命的ではあるがどこか軽薄な恋(いまの大学生の言葉を借りるのならば、ワンチャン)を描くこと、まさに「日が昇るころには別れなければならない、旅先で出会ったばかりの男女」を描くだけのことが、ここまで美しく、(完全に使い古された言い方を選ぶのならば)こんなにもロマンティックな映画になるのか、ということを教えてくれたこと。二つめは、周知のように、そのロマンティックな映画がほぼ「二人の会話だけで」成り立っていた、ということである。

 『ビフォア・ミッドナイト』は三部作の最終章にして最高傑作だ。『ビフォア・サンライズ』を『ビフォア・サンライズ』たらしめたあの小気味よい会話劇を、同じ緻密さと知性と熱量で、ディスコミュニケーションへとそのまま転用するのである。その構図は以下のとおり。「あなたは『女は感情的にしかものを考えられない』と思っているんでしょうけど、どちらが論理的に物事を考えているかを教えてあげるわ」「お前は『<女は感情的にしかものを考えられない>と僕が思っているのだということ』を見抜いているつもりなんだろうけど、そうやって見抜いているつもりになっているお前のことを俺は見抜いて喋ってるんだぜ」(以下、どちらかがマジ切れするまで繰り返し。)

 つまり、不毛だ。すべての痴話喧嘩がそうであるように。さらに切ないのは、「かつての自分たちのような」若いカップルが劇中に登場することだ。彼らの世代は、旅先でたまたま出会ったとしても、最低でも名前だけでも聞いておけば、あとでフェイスブックを検索すればいつでもコンタクトが取れるし、スカイプで飽きるほど話すことができる。もちろん、スカイプ越しに「クレイジーなこと」をすることも。『ビフォア・サンライズ(恋人までの距離)』のような出会いが、もはや一定の時代背景だからこそ成り立った神話と化してしまったことを、二人は知る。若い女の子は「まあ、ロマンティックね」と言ってくれたが、もちろん、それはお世辞である。

 「映画になるほどロマンティックな恋」に落ちた二人は、実は、自分たちの恋が特別なものだと思い込んで、むしろ自分たちは世界に二つとない完全な恋に落ちたと自分を信じさせることで、その恋に恋していただけだったのではないか?というシニカルな視点から、カメラは現在の二人を黙って見つめ続ける。僕たちはうまく愛について語ることはできないし、愛を言葉で伝えることもできないのだろう。そう、誰かを実際に愛すること以上には。計算された会話劇でファンを18年間魅了し続けたこの映画が、本作の最後、言語的な領域をたしかに越えて行くような気がして、ボタボタと涙をこぼしながら唸ってしまった。完璧ではないかも知れないが、真実の映画だと思う。それはつまり、完璧な愛など存在しない、ということの示唆に他ならない。


◎劇中では使われないけどエンドロールで勝手に流したくなる曲(The Velvet Underground - "I'll Be Your Mirror")
        
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