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24 June

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02 January

Film: Before Midnight



映画『ビフォア・ミッドナイト』の感想

あらすじ》*《予告編

 学生時代、TSUTAYAでアルバイトをしていたのだが、お客さんが返却したDVDを棚に戻しに行くとき、僕はラブ・ストーリーのコーナーをどこか軽視していたように思う。いや、「思う」などという無責任な言い方は往生際が悪いか。「こんなものを観て感動している奴は、もっと実際の恋愛で有利になることを頑張った方がいい」くらいのことを考えていた。そしてそれは、映画という芸術そのものを軽視していた、ということなのかもしれない。

 今になって思えば、同じような淡いカラーリングのパッケに、優しいフォントで似たような邦題がズラリと並ぶあの棚の中に、『恋人までの距離』という邦題(副題)を与えられた『ビフォア・サンライズ』も紛れていたのだと思うと、自分の浅はかさが恥ずかしくなる。あの頃の自分は、もっと大きなテーマの映画を好んでいた気がする(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、『ノーカントリー』、『ダークナイト』、『イントゥ・ザ・ワイルド』、、、)。それが高尚なことだと思っていたのだ。そういう愚かしい時代が誰にでもある。

 この歳になってから観た『ビフォア・サンライズ(恋人までの距離)』は二つの意味で衝撃的だった。一つは、運命論な悲劇としての愛ではなく、運命的ではあるがどこか軽薄な恋(いまの大学生の言葉を借りるのならば、ワンチャン)を描くこと、まさに「日が昇るころには別れなければならない、旅先で出会ったばかりの男女」を描くだけのことが、ここまで美しく、(完全に使い古された言い方を選ぶのならば)こんなにもロマンティックな映画になるのか、ということを教えてくれたこと。二つめは、周知のように、そのロマンティックな映画がほぼ「二人の会話だけで」成り立っていた、ということである。

 『ビフォア・ミッドナイト』は三部作の最終章にして最高傑作だ。『ビフォア・サンライズ』を『ビフォア・サンライズ』たらしめたあの小気味よい会話劇を、同じ緻密さと知性と熱量で、ディスコミュニケーションへとそのまま転用するのである。その構図は以下のとおり。「あなたは『女は感情的にしかものを考えられない』と思っているんでしょうけど、どちらが論理的に物事を考えているかを教えてあげるわ」「お前は『<女は感情的にしかものを考えられない>と僕が思っているのだということ』を見抜いているつもりなんだろうけど、そうやって見抜いているつもりになっているお前のことを俺は見抜いて喋ってるんだぜ」(以下、どちらかがマジ切れするまで繰り返し。)

 つまり、不毛だ。すべての痴話喧嘩がそうであるように。さらに切ないのは、「かつての自分たちのような」若いカップルが劇中に登場することだ。彼らの世代は、旅先でたまたま出会ったとしても、最低でも名前だけでも聞いておけば、あとでフェイスブックを検索すればいつでもコンタクトが取れるし、スカイプで飽きるほど話すことができる。もちろん、スカイプ越しに「クレイジーなこと」をすることも。『ビフォア・サンライズ(恋人までの距離)』のような出会いが、もはや一定の時代背景だからこそ成り立った神話と化してしまったことを、二人は知る。若い女の子は「まあ、ロマンティックね」と言ってくれたが、もちろん、それはお世辞である。

 「映画になるほどロマンティックな恋」に落ちた二人は、実は、自分たちの恋が特別なものだと思い込んで、むしろ自分たちは世界に二つとない完全な恋に落ちたと自分を信じさせることで、その恋に恋していただけだったのではないか?というシニカルな視点から、カメラは現在の二人を黙って見つめ続ける。僕たちはうまく愛について語ることはできないし、愛を言葉で伝えることもできないのだろう。そう、誰かを実際に愛すること以上には。計算された会話劇でファンを18年間魅了し続けたこの映画が、本作の最後、言語的な領域をたしかに越えて行くような気がして、ボタボタと涙をこぼしながら唸ってしまった。完璧ではないかも知れないが、真実の映画だと思う。それはつまり、完璧な愛など存在しない、ということの示唆に他ならない。


◎劇中では使われないけどエンドロールで勝手に流したくなる曲(The Velvet Underground - "I'll Be Your Mirror")
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