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21 October

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01 January

Film: Frances Ha

 

映画『フランシス・ハ』の感想

あらすじ》*《予告編

 象徴的なシーンがある。ニューヨークでの惨めな現実にうんざりしたフランシスは、知人のつてでパリへと逃亡する(それも、相手の社交辞令を真に受けた空気の読めなさっぷりで周囲をドン引きさせながら部屋を借りたのだが)。時差ボケのせいもあるのだろうが、フランシスは眠る時間を間違え、朝、起きることができない。ようやく目覚めたのは16時過ぎで、一日が終わりかけた頃だ。しかし、彼女はそれを気にするようでもない。それもそうだろう。彼女を待つ人はどこにもいないのだから。彼女はいつだって「誰か」を、そして「何か」を待っているのだけれど。一事が万事、フランシスの人生はそのように過ぎて行く。これまでも、きっと、これからも。

 おまけに、現地にいる筈の旧友とは一向に連絡が付かず、かわりにかかってきた電話は、ニューヨークで喧嘩別れをしてしまった唯一の親友であるソフィーからの「待ちに待った」連絡である。「恋人の仕事の都合で、日本へ引っ越すことになったの。明日、お別れのホーム・パーティーを開くんだけど、来てくれない?」。パリに来てしまったフランシスは当然、物理的に行くことができない。一事が万事、この調子である。失望のうちに帰路につき、ニューヨークに着いた頃に、連絡のつかなかったパリの旧友から留守電が入る。「連絡遅くなってごめんね。今夜、晩御飯でもどう? いい人も紹介できると思うの」。

 フランシスの生きる世界は、(僕たちの生きる世界がそうであるように)女子であれば結局のところは弁護士のカレと結婚することを「勝ち」とするような世界である。空気を読み合い、「女子の自己実現」という建て前が建て前であることを仄めかし合って生きて行くような、そんな世界だ。フランシスは、(自覚的かそうでないかに関わらず)一時的な「負け」としてのアートに生きている。ニューヨークのブルックリンという、スノッブやファッションとしての「インディー」が蔓延る街で、彼女はモダン・アートとしてのダンスに生きている。「今に見とけよ」と意気込む彼女の中では、いつか彼女は逆転することになっている。もちろん、(僕たちの大半がそうであるように)彼女は何者にもなれない。そのくせ、恰好だけのインディー・セレブ男子と同棲したくらいで満足してしまう程度の自意識であることに、彼女は気付けない。

 結局のところ、自分の人生をどのように受け入れるか、である。それを大人になる儀礼だとするなら、その意味でフランシスは大人になれないでいる。人前で自分の理想をベタに披露することなど、普通の大人であれば差し控えるところを、フランシスはやってしまう。酒に酔い、自分は「真実の恋」に落ちるのをずっとずっと待っているのだと彼女は語る。それが人生だと。あるいは、アートに関する知識を小出しにすることで、「私はひと味違う人間なんだ」という矮小な自己顕示をやってしまう。彼女は27歳である。焦れば焦るほど、彼女は何者にもなれない。この映画が恐ろしいのは(そして、それ故に私たちを引き込むのは)、フランシスが「一時的な負け」として選んだアートの世界の中でも再度「負けてしまう」ことだ。

 映画は、フランシスに救いの手を差し伸べながら終わる。そして、この映画のタイトルの意味を最後に知るときに私たちが浮かべるであろう微笑は、彼女の慎ましい、不恰好な人生に捧げる祝福そのものだ。


◎劇中で流れる印象的な一曲(David Bowie - "Modern Love") 



◎劇中では使われないけどエンドロールで勝手に流したくなる曲(Yo La Tengo - "Is That Enough")
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