夜の人々(1948) THEY LIVE BY NIGHT
ある日、男と女が出会う。男と女は、トラブルに巻き込まれる。あるいは、人を殺め、金を盗む。追っ手が迫る。二人の前には、車が一台ある。やることは一つしかない。このようにして、「物語」というものが神格化されてしまった現代に生きる私たちからすれば呆気にとられるほど、もしくは嫉妬で気が狂いそうになるほどあっさりと、男と女が車に乗り込むというだけのことで、「物語」は始まるのだ。にも関わらず、筋書きからしてこの物語の終わりが主人公の「死」以外にはあり得ないということを冒頭の段階で早くも確信せざるを得ない『夜の人々』という映画にとって、観客の物語論的な関心はいささかも重要ではない。なぜなら、この二人は、何も司法や警察の手からのがれるために車に乗り込んだのではないからだ。それはあくまでも口実に過ぎず、後年、この『夜の人々』を重要な参照元の一つとして撮られることになる、ゴダールの最高傑作と名高い『気狂いピエロ』でハッキリと代弁されるとおり、それは「腐った世界を捨て去るチャンス」だったのだ。したがって、彼らが目指したのは実際的にも象徴的にも「南」などではあり得ず、直訳すれば「夜の近くで生きる人びと」という原題を持つこの映画にとって真にふさわしい邦題は、セリーヌの長編に与えられた『夜の果てへの旅』だったに違いない。
道(1954) LA STRADA
映画史に名高い、中盤のあの忘れがたい「石ころ」のシーン。あそこで男から女に投げかけられる言葉を素朴に受け止め、劇中の女と同じように感激してしまう人がいるが、それは根本的に違う。あそこで男が投げかけるちょっとした哲学風の言葉は、今となっては三流のJーポップ・バンドが様々にバリエーションを変えて歌っているような、凡庸極まりないものだ。したがって、私たちがあの石ころのシーンで深い沈黙にとらわれるのは、あの言葉そのものの力ではあり得ない。そうではなく、あの言葉を受けてパッと明るくなる女の表情、炎が灯るかのように目が輝きを放つ小さな事件、あの子どものような純粋さ、それこそがこの映画のすべてである。ひとつの言葉で世界の見え方が一瞬で変わってしまう、生き方さえも変わってしまう、その魔法じみた瞬間にぶち当たったときの人間が浮かべる困惑にも似た革命の表情を、私たちはこの映画で目撃するのだ。しかし、女が連れ添うべきは、人身売買で買われた旅芸人の男の方であり、彼にはそのような哲学的なものの考え方は存在しないのだ。やがて旅は二人を分かつが、数年後、女の「近況」を知ったときに男が浮かべる表情は、あらゆる人類の失意を代表するかのように、私たちから言葉という言葉を奪ってゆく。
2001年宇宙の旅(1968)
2001: A SPACE ODYSSEY
およそ考え得る中で、完全な映画である。大衆性、実験性、政治性を思いのままに操った67、68年の(一般に黄金時代と呼ばれる)ロックでさえ、これに匹敵する作品を何ひとつとして遺していないのではないかと悟るとき、あなたはそれでも「まともな」音楽ファンでいられるだろうか。そんな完全な映画を前に、筆者如きが言えることなど何もない。かわりに、浅田彰のいかにも「お仕事」風に書かれた『インターステラー』評が、どう読んでも『2001年』を改めて称賛する文章にしかなっていなかったのが面白かったので、該当箇所を勝手に再編集して引用してみよう。
《2001年》は、人間には理解不能なものをそのまま示して謎のまま終わる。月面で発見されたモノリスの発する信号に導かれて、巨大な精子を思わせる宇宙船で木星近傍の「スター・ゲート」に到達したボーマン飛行士が、その彼方で時空を横断する旅を体験したあげく、人類を超えた「スター・チャイルド」として地球近傍に回帰するのだが、音楽としてリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはかく語りき》が使われていることからして、これはニーチェの「超人」のSF版とも言えよう。さらにキューブリックは、リヒャルト・シュトラウスのほか、ヨハン・シュトラウスの《美しく青きドナウ》、ハチャトゥリアンの《ガイーヌ》、はたまたリゲティの《アトモスフェール》、《ルクス・エテルナ》、《レクイエム》といった多種多様な音楽を自由自在に使い分ける。その選曲の妙は見事と言うほかない。別の側面に注目するなら、《2001年》には、幼年期の記憶を、したがってまた死の恐怖をもつ人工知能 HAL(IBMを1字ずつ前にずらせた名前)が登場するのだが、HALが自らの死を恐れるあまり冬眠中の飛行士たちを殺すシーンは映画史上もっともクールな殺しのシーンであり、そして、ボーマン飛行士が HAL を「殺す」シーンはもっとも哀切な殺しのシーンであると言ってよい。
こわれゆく女(1974)
A WOMAN UNDER THE INFLUENCE
J・カサヴェテスは僕に、「最上の映画」を教えてくれたのだろうか? いや、そうではない。カサヴェテスはただシンプルに「映画の定義」を教えてくれたのだ。無論、それは映画の最低水準でもなければ、くだらない平均的水準などでも決してあり得ない。それは映画とそれ以外とを厳格に区別する、映画の中の映画だけが放つことのできる「定義」そのものだった。実際、『こわれゆく女』を観た直後の僕は、あの唐突な、しかしあれ以外では決して終わらせることのできない方法で映画が終わっていくのを深い沈黙とともに見届けながら、自分がそれまでに曲がりなりにも観てきたそれなりの数の作品群が、映画として比較するという以前に、そもそも映画ですらないことを知ったのだ。『Sight & Sound』誌の2012年版のアンケートを眺めると、日本人監督だけで言っても、園子温が『オープニング・ナイト』を、是枝裕和が『こわれゆく女』を、青山真治が『ラブ・ストリームス』をそれぞれのオールタイム・ベストに挙げていることからも分かる通り、おそらく、カサヴェテスはロック史におけるヴェルヴェット・アンダーグラウンドのような存在である。なぜなら、この作品には、演技をする数人の人間と、それを映すカメラ「しか」ないのだから。人に映画を観させるよりもむしろ、撮らせることになった監督だろう。
ビフォア・サンライズ/恋人までの距離(1995)
BEFORE SUNRISE
世の中に多数存在する「映画未満の映画」を、少なくとも今よりも1.5倍はマシなものにするもっとも簡単な方法は、役者たちに与える台詞を従来の1/2程度に削減することだろう。映画は時に、喋りすぎる。そう、この映画を観るまでは僕はそう思っていたし、今でも基本的にはそうだ。だから、これを言ってしまっては身も蓋もないが、結局はセンスの問題なのである。この素晴らしき《ビフォア・三部作》をすべて観てみよう。男と女と車さえあれば、ではなく、「男と女が喋っていさえすれば映画は撮れる」と、「まさに文字通りに雄弁と」主張しているのだ。二人の会話は日常的でも、映画的でもなく、曖昧な饒舌さで観客を魅了する。とは言え、本作の最大の魅力は、そうした会話劇としての完成度よりも、繋がり過ぎた時代を生きる我々からすれば神話的でさえある、「まるで映画のような」ロマンティック・ラブストーリーそのものということでなんら問題はない。「こんな出会いがあったら運命の恋人になるだろう」という相手と、しかし、夜明けまでには別れなければならない「かりそめの恋人」として出逢ってしまうこと。そんな「映画みたいな」巡りあわせに、二人は少しもうろたえないばかりか、この相手となんとしても言葉と身体を交えなければならないことを「最初の一声」で確信しながら、颯爽と電車を降りるのである。
愛のむきだし(2008)
LOVE EXPOSURE
メロドラマが単にメロドラマであるとを許されず、悲劇が単に悲劇であることが許される筈もない現代において、園子温が過剰に喜劇的なもの(女子高生のパンチラ、及びその超人的盗撮と勃起)からこの《ボーイ・ミーツ・ガール》の物語を始めなければならなかったのは、むしろ彼の生真面目とさえ言える映画史観に根差すものであろう。スクリーンの長方形の枠には到底収まる筈もないエネルギーで動き回る満島ひかりが、園にとってのジーナ・ローランズ(古き良き映画の象徴)だったのだとすれば、西島隆弘の漂わせる軽薄さは、「映画」や広義の「物語」を脅かす現代病の化身のようである(彼に東映的な意匠(=衣装)が与えられるのも、どこかメロドラマ批判的である)。つまり、この映画のある種の気持ち悪さは、青春映画としての生真面目なまでの自己嫌悪からくるものなのだ。だとすればここでの安藤サクラは、無根拠な狂気(つまり、極めて「園子温的なもの」)として二人のあいだに送り込まれているのだが、しかし園は、結局のところストレートな映画愛に狂気的なまでに服従している。物語はとてつもない速度で急旋回しながら、いっさいの自己嫌悪と映画への批判精神を捨て去り、メロドラマの極致に突入いていくのだ。