#01,02
ヒップホップにおいて「ストリートの」とか「ストリート的な」といった言葉は、「リアリズム」とほぼ同じ意味で使われるが、しかし、それが本当のリアリズムたり得たことなど果たしてどれだけあったのだろう。多くの場合、そこにほんの少しでも脚色なり誇張が含まれてはいなかったか。だとすればそれは、あくまでも「リアリズム風」の表現だったに過ぎない。一方、ERAの極めて分裂気味な、ビート文学を研究したというよりはリリックを殴り書きしていたらたまたまビートのそれになったようなサイケデリックな散文詩は、自分を自分以上のものに見せようとしないという意味で、どこまでもリアリズムだったと言えるだろう。にも関わらず、同時に、彼のリリックには「オレ」すらも不在である。ERAは、「オレ」を最高に、決定的にハイにしてくれるものが「オレ」の周りを思わせぶりに通り過ぎて行くのを、ただニヒルに眺めているばかりだ。J・ケルアックの言うように、彼が路上に見出したのは「リアル」ではなく、いくつかの「啓示」に過ぎない。
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#03
この企画に二度参加できるのなら、僕はもう一方の参加権を存分に行使して、SIMI LAB関連作で徹底的に固めたリストを組んだだろう。USのミックステープを追いかけていると、やたらと多数なメンバーを抱えるヒップホップ・コレクティブが同時多発的に登場している印象を受けるわけだが、ここ日本のラップ・シーンにおいても、どこの国に出しても恥じない最高にクールな多人数グループがデビューしていたのだから。筆者が最後の最後まで悩み、今回のリストがこのようになったのは、やはり、SIMI LABのすべてがQNだったとは当然言えないにしても、一定の割合において決定的な存在だったと考えざるを得なかったからだ。ERAとは正反対に、その清々しいまでの大言壮語は非常にヒップホップ的だった。
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#04
冒頭の話を早くも繰り返す。「日常」だの「等身大」だのと言われがちな昨今のポップ・ミュージックの歌詞が、本当の意味で日常的で、等身大だったことがかつてどれほどあったのだろう。それらはあくまで「日常風」であり、「等身大風」だったに過ぎない。一方でこの、ECDのリリックときたらどうだろう。筆者はこのアルバムにぎっしりと書き込まれた言葉を読んで、あるいは聞いて、一人の男の姿を、その表情を、その日常を、そして彼の汗の臭いまでも想像できる気がするのだ。
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#05
ヒップホップとしてのみならず、ヴェイパーウェイヴ以降のモダンアートとして見たときに、もっとも批評的な言説に向くのはこのアルバムだろう。ポップアートの名高い古典をリミックスしたようなジャケット・アートに始まり、「音楽に二度とお金を払うな」と名付けたアルバムがお金を出さないと手に入らないのだから、「中の人」が筋書きしたコンセプトの強度はそれだけでもうかがい知れるというものだ。もちろん、中身も一級品で、リリックが単に犯罪的であるということよりも、それをリスナーにも欲望させることの方が重要だ。例えば、ECDが参加した本作屈指の一曲を聴いて、心の中で「いいぞ、もっとやれ、もっとやるんだ」と思わないような退屈な人間は、ポップ・ミュージックという表現とは最初から縁のない人間である。
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